教誡

悟りには年月がかかる。

種を蒔いて、明日に芽を出し、明後日に刈る。

その様にはならない。

三階建てを建てるのに、土台を築く。

空中に三階だけを建てる事はできない。

今、知恵ある人は、まさに果実のそばにいる。

長く勤行した成果だ。

仏陀は、悪魔の襲来に打ち勝ち、陽の昇りと共に、静けさと共に、光りに満ちていた。

考えた事は、身は穢れたものであること、

苦も楽も苦の因であること、心の全てに我なき事。

これは真実であった。

天も魔となり、五蘊は魔を向かわせた。

その中で、知恵はよくよく意を護り、

縁起生成を巡らせた。

念ずるも、座するも、縁起の流れ。

その思考の中で、悟る。

更に、確かめると、心の計らいは、流れに逆らうものであり、

仏は内にある。

目を伏せ、惑わず、思考し、

何の色もない。

佛を見たことは無いのだが、仏の心中を察する事はできない。

恐らく、無のようなところで思慮しているのだろう。

仏性と云う。

ここでキーになるのは、穢れた身、苦の因を握りしめる。心に我はない。という事であり、

確かめるものだ。

そして縁起の流れ。である。

この話恐らく理解されるだろう。

何故なら仏の慈悲力であり、智分ではないからだ。

我々はずっと仏の慈悲に預かっていたのである。

楽と善を弘め、仏と繋がり続けた。

そうして大樹を成したのだ。

これから入る人たちも、また仏の慈悲に預かる。

我々も縁となり、因となるかも知れない。

世の中は確かに酷い。

家族にても恨み合いそしり合い、愚痴合い、

意地悪や陰口も横行する。

しかし一方で、道を求める心を起こす人がいる。

自分も思い出すに、怒りや愛欲、酷い苦しみの中だった。

善心も埋もれた。

状況は様々だが、志を起こす人もいる。

教団とは、法と静と善と和である。

正見に勤めるべきである。

いかんともすれば、我離れ、それで良しとなるが、

仏の慈悲力には、報いねばならない。

まだまだ、一休みすれども、完全に止息するわけには

いかない。

そう習ってきたはずである。

教主はどうやら阿弥陀如来という気がするが。

誰かの何かになるべきである。

縁ある人を大切にし、五感を護り、

日々勤めるべきである。

曰く、怠るは死の仲間、励むは生の仲間なり。

深め、気をつけ、学んでいくべきである。

戒めを守る事かな。

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